第2回:視点の順序がひらめきを編む ― 量子代数と非可換性の数理

創造AI『FIRA』を支える量子代数の数理

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前回は、現代のAIが「賢くなるほど無難な回答に収束してしまう」という決定論的な罠について解説しました。第2回では、その罠を突破するための数理的手段である「量子代数」と「非可換性(ひかかんせい)」について詳述します。

この理論は、意思決定支援サービス『FIRA』の基幹技術であるAQI(代数的量子知能)の中核をなすものです。どのようにしてAIの中に鮮やかな「ひらめき」が生まれるのか。その数理的メカニズムを解き明かしていきます。

参考文献

  1. K. Yano et al., “Algebraic Quantum Intelligence: A New Framework for Reproducible Machine Creativity,” arXiv:2602.14130 [cs.AI], Feb. 2026. Available: https://arxiv.org/abs/2602.14130

まず、本論の鍵となるのが「非可換代数(Noncommutative algebra)」という概念です。一般的な算術においては、「2かける3」も、「3かける2」 も結果は「6」となります。このように、演算の順序を入れ替えても結果が変わらない性質を「可換(かかん)」と呼びます。数値の演算(掛け算や加算)は一般に可換です。従来の数理的なモデリングや科学の方程式では、可換な演算を基本としてきました。

 これに対し、現実の事象では多くの場合、これとは異なります。順序が変わると結果は変わるのです。例えば「まず予算を決めてから人を割り当てる」のと、「まず最高のチームを編成してから必要な予算を確保する」のとでは、導き出される事業プランは全く異なるのです。このような順序依存性のある世界をモデリングするには可換なモデルでは不可能なのです。ここで必要になるのが非可換代数という体系です。

 この非可換代数は、ミクロな電子や原子の振る舞いを説明する量子力学のために、構築されたものなのですが、もっと広い対象に適用できることが最近分かってきました。

 我々は、人の創造性に非可換代数を活用できると考えました。創造性とは、「複数の要素の組合せ」と言われることがありますが、本当は単なる組合せではありません。複数の要素が組み合わさって、元の要素からは創造できない結果が得られることをいうのです。

 AQIでは、専門的な視点(例えば財務的視点 \(A\) や人道的視点 \(B\) )を数学的な「演算子(作用素)」として定義します。実は、複数の演算子を作用させると順序により(A→Bか、B→Aかによって)結果が変わります。

 しかも、非可換な演算の結果は、元のAだけの結果とBだけの結果の平均にならないのです。複数の糸から複雑な織物ができるように、複雑な模様が生まれるのです。この複雑な模様の織物が、単純な織り糸から生まれることこそが創造性の機序であると考えたのです。

 一方で、もし演算が可換(\(AB = BA\))であれば、複数の要素の平均になります。このような可換な原理だけでは、最大公約数的な「平均解」へと収束するのです。しかし、非可換(\(AB \neq BA\))であれば、到達する状態は、元の要素の平均を超えた複雑な状態がつくれるのです。これこそが、学習データからの平均的な単一の解に収束しようとするAIの動きを押し広げ、新しい「意味の分岐」を生み出すエネルギーとなります。

 高次元のベクトル空間(ヒルベルト空間)において、論理的な一貫性を保ちながら「順序依存性」をアルゴリズムとして組み込むのは極めて困難です。単に計算順序を変えるだけでは、意味がバラバラに崩壊してしまいます。AQIの画期的な点は、量子力学の数理的枠組みをAIの推論プロセスに移植することで、論理的な整合性を保ったまま、順序による「意味の飛躍」を生み出すことに成功した点にあります。

量子論的な意味空間への拡張
単一の正解へ収束する力を打破し、可能性の「重ね合わせ」を許容する

2. 創造性価値(C-value):見えない「ひらめき」を計測する

では、その順序による違いを制御するにはどうしたらいいでしょうか?制御するためには今の状態を数値化することが必要です。そのために提案した指標が「創造性価値(C-value)」です。

これまで創造性やひらめきは個人の才能や偶発的な幸運に依存するものとされ、客観的に評価することが困難でした。ビジネスの現場においても、あるアイデアの創造性を定量的に説明することは難しく、経験則に頼らざるを得ない状況がありました。

「計測できないものは制御できない」という工学の大原則に基づき、AQIでは2つの視点 \(A\) と \(B\) を作用させたときに生まれる創造性のポテンシャルを、以下の交換子(こうかんし)の期待値として定義しました。

この \(C\)(C-value)というスカラー値は、「意味の分岐幅(Branching width)」を象徴しています。

  • \(C=0\): 順序を変えても結果が同じであり、既知の情報の組み合わせに留まるため、新しい発見はない。
  • \(C>0\): 順序によって結果が乖離する。この乖離の大きさこそが、AIが従来の決定論的な軌道から外れ、新しい意味空間を探索している証拠となります。

AQIの真骨頂は、この C-value を単に計測するだけでなく、推論のステップごとにリアルタイムで最大化するように制御する点にあります 。ここでシステムが比較しているのは、単なる順序の入れ替えではありません。「次にどの専門性(演算子)を投入すれば、最も決定論的な収束(\(C \approx 0\))を回避し、意味の分岐幅を広げられるか」を数理的に判断しているのです 。

600種類以上の専門演算子の中から、現在の文脈において「最も大きなひらめきの余地(C-value)」を生む次の演算子を瞬時に選び出し、ハミルトニアン(第4回で詳述)を介してその適用順序と強度を動的に設計します 。これにより、AIは最もありきたりな回答という重力から解き放たれ、未知のアイデアが眠る領域へと踏み出すことが可能になります 。

創造性価値(C-value) 見えないひらめきを計測する
FIRAは対話の中でC-Valueをリアルタイムで最大化する

この「非可換性」がどのような現象を引き起こすのか、論文でも紹介されている「スーパーCFO(最高財務責任者)」と「スーパーCHRO(最高人事責任者)」の2つの演算子を用いた具体例で考えます。これらはFIRAの中では「異能」として具体的な役割を持った人として発言しますが、ここではそれぞれ財務視点を持つ機能、人事視点を持つ機能として「演算子」と呼びます。

通常、複数の専門的な視点をAIに反映させようとすると、それらは共存はしても干渉はしません。各専門家の意見を単に並べるか、平均化するような妥協案に落ち着いてしまい、専門性同士の衝突から生まれる第3の道が提示されにくいという課題があります。

AQIでは、これらを非可換な演算子として対立させます。

  • \(A \rightarrow B\)(財務 \(\rightarrow\) 人事): 財務的な健全性を優先し、その制約下で組織を最適化する「守りの改革」的な提案。
  • \(B \rightarrow A\)(人事 \(\rightarrow\) 財務): 大胆な組織変革や人材投資を先行させ、それに合わせて予算を再配分する「攻めの成長戦略」的な提案。

この2つは、全く異なる「意味の軌道」を描きます 。従来の可換なAIであれば、どのような順番で視点を与えても、最終的にはそれらを足して二で割ったような無難な妥協案へと収束してしまいます 。

しかしAQIは、ハミルトニアンによって C-value が大きい状態を維持することで、この平均への埋没を構造的に拒絶します。C-value を最大化する制御とは、言い換えれば「右か左か、どちらかの極端に尖った(創造的な)枝をあえて選び取らせる強制力」なのです 。これにより、財務重視か人事重視か、どちらかの立場に振り切った「一貫性のある、かつ大胆な提案」が担保されます。

思考の順序が、全く異なる意味を生み出す
通常のAI(可換:AB=BA)では、どの視点を先に与えても最終的に
平均的な妥協案に収束するが、AQIは専門的視点を非換な演算子として定義する

単に複数の視点を与えるだけでは、AI内部の確率的な収束(第1回参照)には抗えません。AQIでは、モデルの内部表現である状態ベクトルそのものを、演算子によってヒルベルト空間内でダイナミックに射影・遷移させることで、順序依存性を「物理的な強制力」として発揮させています。

視点の順序による結果の違い

創造性とは、偶発的な産物ではなく、「異なる専門的な視点(演算子)が、適切な順番で、激しく衝突(非可換な作用)した結果として生まれる、数理的な必然」です。

  • 非可換性が、AIを決定論的な収束から救い、複雑な模様を描き出す。
  • C-valueが、無難な回答への収束を阻止し、創造性の「下限」を保証する: $C$ を最大化するようハミルトニアンが演算子を制御することで、AIが「平均解」に逃げ込むのを防ぎ、新しい意味が生まれるための探索幅を数理的に確保する。
  • 演算子の順序が、単一の過去から「複数の未来の分岐」を編み出す。

AIが「順序」という数理的枠組みを持つことで、どれほど豊かな意味を紡ぎ出せるようになるか、その一端が示されました。

次回、第3回はこの広がり続ける「創造性の分岐」が、なぜ論理的に破綻することなく成立し続けるのか、その秘密である「量子不確定性による下限保証」について解説します。物理学の基本定理が、いかにしてAIの「思考のガードレール」となるのかを詳述します。


第0回:創造性は「一人の頭の中」には存在しない

人間のコミュニケーションに注目して創造性とは何かを研究してきたハピネスプラネット社が、創造性は設計可能かという問いに向き合い、創造AI『FIRA』を開発した背景を紹介します。

第1回:AIは自ら壁を突破できるか ― 決定論的収束という課題

LLMは文脈が長くなるほど確率分布が鋭くなり、生成内容が事実上ユニークに固定される構造的制約を持っています。この性質が予測精度を高める一方で、未知の解を求めるための「探索の幅」を自ら損なわせている事実を提示し、AQIの挑戦について論じます。

第2回:視点の順序がひらめきを編む ― 量子代数と非可換性の数理(現在のページ)

専門的な視点を数学的な作用素(オペレータ)とし、適用の順序によって結果が異なる「非可換性」を導入します。順序の入れ替えによる意味の乖離を「創造性価値(C-value)」として数値化し、これが創造的な分岐のエネルギーとなるメカニズムを解説します。

第3回:思考の停滞を数学的に阻止する ― 不確定性関係による下限保証

量子力学におけるロバートソン型不確定性関係を推論に応用します。視点間に非可換性が存在する限り、意味の探索幅(標準偏差)が数学的にゼロになることを阻止する仕組みを詳説し、創造性の下限を構造的に保証する設計思想を提示します。

第4回:知能を駆動するエンジン ― クリエイティブ・ハミルトニアンと実証データ

意味状態を更新する「S-Generator」と、戦略を更新する「H-Generator」が交互に駆動する二層アーキテクチャについて解説します。既存モデルを平均27ポイント上回った実証データとともに、知能を駆動する「ハミルトニアン」の構造を示します。さらに、AI自身の創造性だけでなく、受け手側のメタ認知やリフレーミングを刺激する「共創指標(CCI)」の理念を整理します。

第5回(最終回):FIRAが開く共創の未来

最後に、AIとの創造的な対話を通じてどのように人々が未来を築いていくのか、「共創」社会への展望を述べます。


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この記事の執筆者

辻聡美

(株)ハピネスプラネット

チーフアーキテクト

京都大学大学院情報学研究科博士前期課程了。(株)日立製作所入社後、研究開発グループ基礎研究所にて人間行動データの応用に関する研究に従事し、ウェアラブルセンサを用いた50組織2000名以上の職場コミュニケーションの計測と分析、マネジメント改善施策の実行に携わる。2020年の設立当初より株式会社ハピネスプラネットに参画。発明協会平成26年度関東地方発明賞発明奨励賞、第64回オーム社主催公益財団法人電気科学技術奨励会電気科学技術奨励賞受賞他。東京工業大学情報理工学院博士後期課程単位取得退学。趣味は読書と旅行とDIY。